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新着情報

​小田幾五郎 交隣須知修正増補影印本
と解題を出版致しました

2024.05.       (通訳酬酢)小田幾五郎著(江戸時代)影印本、訳本製作予定

2023.11.17   茶道教室を開始致しました (講師は大浦宗章、高谷宗光)

2023.10.17   小田幾五郎 交隣須知修正増補 影印本と解題を出版発売致しました

2022.11.09   鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ第二段 「書状集」の最終回 

2022.10.24   鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ第二段 「書状集」の続き

​2022.10.22  小田幾五郎『虎説』の影印本を出版発売致しました

2022.10.07   鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ第二段 「書状集」(大阪大 岸田文隆)

​2022.08.27  小田幾五郎『虎説』の訳本(大阪大学 岸田文隆教授による)を出版発売致しました

2022.02.19 鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ3

2021.12.07 鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ2

2021.11.03 鍵屋歴史館ブログを更新しました 幾五郎ブログ1

2021.10.20  書籍のご注文はお電話でお問い合わせください

2021.10.05  ブログを更新しました

2021.10.01  鍵屋歴史館ホームページを公開しました

対馬鍵屋歴史館の由来

対馬鍵屋歴史館は、鍵屋大浦本家の11代当主大浦望人司(もちとし)が設立しました。
大浦家は、対馬藩主の宗家が対馬へ渡る前からの家来です。
宗家は、平清盛の血を引く子孫で、豊臣秀吉にも平家の子孫であることを認められ

五三桐の紋章を与えられています。
 

大浦家は、城下町の厳原で長く武士として宗家に仕えていましたが、江戸中期に武士を辞し、現在の美津島町雞知に移り住みました。身分は名字帯刀を許された庄屋です。その後も三百年以上にわたってこの地に住み、地主として今に至ります。武士を辞めた後に鍵屋という屋号を賜りました。


七代目の大浦松右衛門に、対馬藩朝鮮語大通詞を長く務めた小田幾五郎の孫娘の伊奈が嫁いできました。
松右衛門と伊奈の子である八代目の大浦領作は、母方の通詞一族小田家の影響を受け朝鮮語に通じ、対馬藩六十人衆(藩から貿易を許された60軒の特別な家)の資格を持ち、独自の貿易で富を得て、美津島町雞知の屋敷前の入り江を干拓し水田を開きました。そこは鍵屋原(かぎやばる)と呼ばれています。この地は、対馬与良郷(よらごう)の中にあり、上対馬と下対馬の中間に位置し、浅茅湾にも面しています。

 

浅茅湾には、江戸時代の対馬藩の貿易船御所丸の港もありました。
11代望人司は、大浦家に古くからある石屋根蔵に収納されていた、江戸時代の生活用品や衣装、本、版画などを昭和の時代になって展示することとし、屋号から対馬鍵屋歴史館と名付けました。

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対馬の地形と自然

地球上で大陸の分裂が起こった時、現在の対馬にあたる部分がコンパスの軸となって陸地が移動し、日本という島国が作られました。日本にある神話の中のイザナギとイザナミの神様が海をかき混ぜて日本列島を作ったという伝説を想像してしまう出来事です。対馬には伝説があります。イザナミの女神が対馬の浅茅湾の地に剣を刺して島を二つに割ったというのです。

浅茅湾は世界的にも有名な美しいリアス式海岸です。上坂の展望台からの眺めは絶景で日本国定公園に指定されています。植物や昆虫、野生動物も、本土では絶滅してしまっても対馬ではまだ生息しているものがあります。

 

対馬は火山でできた島ではなく、氷河によって削られた地形をしていますので、山々は深く険しく、人の足で入ることは容易ではありません。最も高い山は 白獄(しらたけ)と名付けられた霊山です。昔から立ち入ってはいけない神の山と言われています。

鎌倉時代に元の国が支配下においていた朝鮮の民を使って日本に攻めてきた時、一番最初に攻撃されたのが対馬でした。その際も、対馬の地形が幸いして島の人々は山深くに逃げ込み、多くの命が救われました。海に関しては、対馬暖流の流れが速く、対馬と韓国の間にある海峡を昔の帆船で渡ることは容易ではありませんでした。対馬の周りを囲んでいる海は大陸棚で、海深200メール前後で海水が温かく、魚が住みやすい環境です。そのため対馬の海は、漁業にとても適しています。 

そして、世間にはあまり知られていないこんなエピソードもあります。江戸時代に日本地図を作った伊能忠敬が対馬を訪れた時、既に対馬にあった地図は、伊能忠敬も驚くほど正確にできていました。大陸から学んだ対馬藩の地図の作成方法は、その後の伊能忠敬の地図作りに影響を与えました。

対馬の北部から韓国の釜山を見ることができますが、韓国から見た対馬は実際より大きく広く見えます。太古から対馬を大国と勘違いして恐れていた朝鮮国が対馬に攻め入ったことは一度もありません。地形が対馬、強いては日本を守ってくれていたのです。それを何より思い知らされたのは、日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊との決戦が対馬海峡で行われた時です。東郷平八郎海軍大将は、対馬の浅茅湾に軍艦を潜め、何度も航路を浅茅湾から巡回させ、際限なく軍艦があるように見せかけ、世界一のバルチック艦隊を破ったのです。東郷平八郎の知恵と対馬の地形が日本を救ったといっても過言ではありません。

歴史の上でも対馬の地形は、日本列島のコンパスの軸という由縁を感じずにはいられません。

対馬の名所や天然記念物

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長崎県対馬市美津島町雞知乙632

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